荒れ野を田んぼ変えよう/新渡戸 伝(にとべ つとう)
青森県南部の都市、十和田市は現在、米や野菜などを生産する豊かな地帯となっています。しかし、1850年代は三本木原という、住む人もいない荒れた原野でした。
江戸時代の末、1855年、八甲田おろしの吹きすさぶ三本木原の原野に一人の武士が立っていました。名を新渡戸伝と言い、歳は63。伝はこの原野に水路を通し、稲の実る田んぼをつくろうと考えたのです。
伝は南部藩の武士でした。当時、南部藩は岩手県北部と青森県南部の広大な地域を有していましたが、たび重なる凶作により財政は苦しく、農民の生活は悲惨なものでした。それを救うのが藩の大きな課題でした。
伝は56歳の時、藩の勘定奉行を命ぜられました。伝は藩の財政を立て直すため、三本木原の開拓を決意し、藩主に願い出ますが、なかなか許可が出ませんでした。藩の財政が苦しかったからです。
その願いは、伝が63歳の時、ようやく認められ許可されました。けれど藩のお金はあてにできません。伝は有志からお金を集め、また、自分の武具などを売って開拓の資金にしました。
工事は困難を極めました。三本木原の南を奥入瀬川が流れていますが、高低差が30メートルもあるので、水をずっと上流から引かなければなりません。また、途中に山があったため、トンネルを掘る必要もありました。
当時は、爆薬もなかったので、カナヅチとノミだけでトンネルを掘りました。こうして、2,540メートルと1,620メートルの2つのトンネルと、人工の川を約8キロもつくりました。5年にも及ぶ大変な工事でした。
そして、1859年5月4日、初めて奥入瀬川の水が音を立て三本木原を流れたのでした。伝の意思は、長男の十次郎、孫の七郎に受け継がれ、荒れ野は豊かな水田地帯にその姿を変えていったのです。
その後、三本木原は発展を続け、十和田市ができました。市では新渡戸一族に感謝して記念館をつくりました。また、水路に水が初めて流れた5月4日頃、太素祭(太素は伝の別名)を催し、その業績をたたえています。