津軽開拓に生涯をかける/平沢 三右衛門(ひらさわ さんえもん)
現在のつがる市(旧木造町)を中心とする新田地方は、たびたび大ききん飢饉に見舞われ、農民たちは土地をすて、他に逃げてしまうほどでありました。そのため、田畑は荒れ放題でした。
三右衛門はこのありまさまをみて「この土地を耕さなければならない」と強く決心し、どうにかして、この荒地を稲穂でいっぱいにしたいと考えました。
三右衛門の開拓に対する情熱は、異常と言われるほど強いものでした。米と味噌をいれたカマス(※袋や四角い箱のこと)を背負って山野を歩き回り、野宿しながら開拓に適する土地の調査に全力を注ぎました。
農民と一緒に泥まみれになって働いたり、貧しい者には農具をタダで与え、医療の手当てをしてやり、郡奉行の役についてからも、自らクワをもって農民の手助けにあるきました。
酒やタバコは「自分は祈りを求めている身分であり、しかも三度の食に欠く人がひとりでもある以上、余分なものを口にするのは悪だ」といって、絶対にたしなむことはしませんでした。
そのあまりに気違いじみた打ち込みように、ある学者が「平沢農狂先生」と呼んで冷やかしたそうです。三右衛門はそれを聞いても怒るどころかかえって喜び、それ以降、自分のことを「農狂逸人」と呼んで誇りにしました。
また、津軽藩の須藤という剣の達人が「剣の道を極められたらどうです」とすすめましたが、三右衛門は「わたしはクワを持って石を割れます。天然の敵、不作や飢饉といつも闘っているのです」と断りました。
この話を伝え聞いた津軽の殿様が「この勝負、須藤の負け」と言って、楽しげに笑ったということです。三右衛門の胸中に燃え続ける、静かな情熱の炎が見える気がします。
津軽開拓に生涯をささげた三右衛門は、77歳でこの世を去りました。南部の新渡戸伝とならぶ農民の大恩人です。三右衛門の死後、大正4年に天皇陛下から勲章をもらいました。