放牧事業に大農法を導入/広沢 安任(ひろさわ やすとう)
安任は会津(福島県)に生まれ、藩士をしていましたが、明治維新の際、藩主が斗南藩へ移された時、会津から本県に移り、永く住むことになりました。
斗南藩というのは、現在の五戸、野辺地、下北地方をあわせ、約3万石ありました。
旧藩士たちは、やせた原野を開拓しましたが、その苦労は言葉ではいい尽くせないほど大変なものでした。
食糧不足のため、馬に食わせる大豆や豆腐かすまで食べ、ついには他の村の農家から、残飯までもらって歩いたということです。
明治4年に行われた廃藩置県によって、斗南藩も県となりましたが、旧藩主とその家族たちの苦しさは、少しも変わりませんでした。時悪しく、凶作も続いていました。
そこで安任は、この窮乏を救うために、小さな県をいくつか合併させようとしました。当時、弘前・黒石・八戸・七戸・斗南の5県に分かれていたのをひとつの県にまとめようと、同志の太田弘城とともに政府に進言し、全国に先駆けて1つの「青森県」をつくりました。
安任は幼少から、漢学や儒学を勉強した人です。藩の学校に入り、江戸にでて
「昌平こう」に学びました。さらに、藤田東湖という高名な学者の教えをこぎ、欧米の訳書をことごとく読破しました。
また、明治政府の偉い人たちとも付き合いがあり、早くから高い地位につく力は認められていましたが、維新の動乱で人間嫌いになり、政治には関心がなくなっていました。「野にありて国家につくす所あり」との固い決意から、三本木の原野に酪農場をひらき、英国人の技術者を雇い、放牧事業をおこしました。
政府にかけあって、国から助成をひきだし、県には全く負担をかけませんでした。その経営法は「欧米式大農法」と言われ、わが国で最初に取り入れられたものです。
酪農にかけた安任のこころざしは、子孫に代々受け継がれ、三沢市の谷地頭地区にある広沢牧場には、いまも古い農具類が保存されています。安任はインフルエンザのため、62歳で亡くなりました。遺骨は牧場内にあつく葬られています。