冷害に強い稲をつくろう!/田中 稔(たなか みのる)
青森県の農業は、冷害との闘いでした。今でも毎年5月~7月にかけて「ヤマセ」と呼ばれる北東から吹く冷たい風が、下北地方や南部地方の太平洋側に吹きつけて、農作物に大きな被害を与えています。
昭和6年(1931年)にも、青森県は大変な冷害に見舞われました。そして、冷害は昭和7年、9年、10年と続いて、米をはじめ多くの農作物が実らなかったため、10万人もの人々が飢えに苦しみました。
昭和10年6月、冷害を防ぐ研究をするため、三本木町(現在の十和田市藤坂)につくられた青森県農事試験場の農林省指定、凶作防止試験地に一人の研究者が派遣されました。田中 稔という人です。
田中はさっそく、寒さに強い稲の品種をつくる研究にとりかかりました。しかし、毎年冷害がやってくるとは限りません。そこで田中は、冷たい水を水田に流し込めば、冷害の時と同じ条件になると考えました。
新しい品種をつくるためには、長い年月が必要です。田中は、稲の穂ができるころから、水田に冷たい水を流し込み、それに耐える稲を見つけ出しては、それらをかけ合せるという仕事を、何年も何年も続けました。
田中が研究を始めて、10年以上が経ちました。そして、種類の違う立派な稲をかけ合せて、さらに強い稲をつくるという根気のいる仕事を続けた結果、とうとう14,400系統もの品種の中から、冷害に強い新しい品種をつくりあげることに成功したのです。
成長が早く、寒さに強い、そして収穫量も多いというこの品種は「藤坂5号」と名づけられ、昭和24年にはわずか、84ヘクタールだった作付面積が、昭和28年には17,218ヘクタールに増えるほど評判になりました。
昭和28年に、青森県は再び冷害に襲われました。しかし、「藤坂5号」は立派に冷害を乗り越え、多くの稲を実らせました。このことから、冷害防止に大きく貢献したとして、その年、田中は総理大臣から表彰されることになったのです。
田中は、その後も青森県農業試験場の場長として、数々の功績をあげ、青森県の農業の発展のために力をつくしました。田中がいつも言っていた言葉があります。
「農業は人類の生存のもとである」と。